通信の切断、治安部隊の出動、反国王派の監禁・拘束など、混迷続くネパールからの現地リポート。
3月14日(月曜日)
ネパール暦の最後の月でもあるチャイトラ月最初の日。今日は、「完全な民主主義」を求める5政党による2回目の合同プログラムがある。全国でデモが予定されている。カトマンズでは午後4時、旧市街のアサンからデモが出る、ということがすでにあちこちのメディアで公表されている。最大2政党のネパール会議派(NC)とネパール共産党統一マルキスト・レーニニスト(UML)が、「積極的にデモに参加して、逮捕されよ」という指示を党員に出したことから、今日は大勢の逮捕者が出ると思われる。
少し早めに友人の記者と待ち合わせてアサンに行くと、すでに大勢の記者がいる。デモ隊を制御する制服警官も、取材する記者も、ほとんどが同じ顔ぶれである。集まった政党側の活動家のなかにも、見知った顔がずいぶんいる。8日と同様、UMLの元国会議員ビル・バハドゥル・シンを記者たちが囲んでインタビューを始めると、警官がやってきて、まず彼を逮捕した。その後、次々と周辺で小さなパンフレットを空中にまいて、スローガンを上げ始めた。1人、また1人と逮捕されて警察のバンに入れられる。8日にはアサンにいたにもかかわらず、捕まらなかったコラムニストで共産系リーダーのマヘシュ・マニ・ディチトも逮捕された。今度は、インドラチョークの方へ警官が走っていくのを見て、記者たちも走っていった。NCの旗がいくつも空中に舞っているのが遠くに見える。セト・マチンドラナート寺院の前に来ると、NCの最長老で大臣経験者のバル・バハドゥル・ライが1人でスローガンをあげながら逮捕された。彼のあとのほかの活動家も「サイ・カダム・ムルダバード!(国王の宣言を廃止しろ!)」と叫びながら、警官に逮捕された。このNCのデモがいちばん大きかったようだ。再びアサンに戻るが、なかなか次の動きがない。捕まらなかったNCの女性活動家数人がいるが、「われわれのデモは終わった。UMLが出るのを待っている」という。30分ほど待つが、結局、このあとデモは出なかった。アサン付近での逮捕者は20人ほどだった。8日よりも、むしろ逮捕者もデモに出た人も少ない。記者たちは「期待はずれ」といった感である。
それにしても、記者のなかに軍や警察のCID(私服官憲)が混じっているのには腹が立つ。なかにはあからさまに、デジタル・カメラで記者の写真を撮っている人もいる。記者証を下げているが、どう見ても官憲である。記者どうしの話しに耳を済ませたり、やることが実にいやらしい。ジャーナリストの行動まで監視して、一体、何のためになるというのだろう。
今日のプログラムは平野部のジャナクプルで最大の逮捕者を出したようだ。200人とも500人とも言われる人が集団で逮捕された。他にシラハやネパールガンジ、ダン郡ゴラヒなどで逮捕者が出た。
3月15日(火曜日)
早朝、友人の記者の電話で起こされた。新聞各紙に、マオイストの政治局員Dr.バブ・ラム・バッタライとその妻ヒシラ・イェミが党から除籍されたという記事が掲載されているというのだ。早速、ネパール語紙の「カンティプル」と「ラジダニ」、英字紙の「The Kathmandu Post」と「The Himalayan Times」を見ると、小さい扱いだが、全紙が一面で報じている。どの新聞も国営通信社RSSの引用だ。RSSは王室ネパール軍の広報部からの情報として、マオイストことネパール共産党毛沢東主義派の中央委員会が決定したことだと伝えている。バッタライは党首“プラチャンダ”、そして、党内の最長老で昨年、インドのシリグリでインド警察に逮捕された“キラン”ことモハン・バイデャヤについで、党内ナンバー3と見られるリーダーだ。5人しかいない党最高機関である常備委員会のメンバーで、2003年に政府とのあいだで2度目の対話が行われたとき、5人からなるマオイスト側対話団を率いて国民の前に姿を現した。マオイストが人民戦争を始める約1年半前に、バッタライ夫妻には一度会っているが、丸7年の地下生活のあとに最初の記者会見で見たバッタライ氏は、ずいぶん痩せて小柄になったなという印象だったのを覚えている。
それにしても、このニュースは真実なのか。実は、昨年8月末に、彼らの本拠地であるロルパ郡タバン村で1週間にわたり、95人のメンバー全員が出席して開かれた党中央委員会議の席でも、バッタライ氏が非難の的になったと聞いた。この会議では、「対話派」と「戦闘派」に分かれて大きな議論となったと言われている。党首のプラチャンダやバッタライ、そして、スポークスマンのクリシュナ・バハドゥル・マハラら最高幹部の多くは「対話派」だが、常備委員の1人“バーダル”ことラム・バハドゥル・タパと人民解放軍のトップクラスの指揮官らが「戦闘継続」を主張。結局、「対話派」は少数派で、「戦闘派」に押し切られたと言われていた。プラチャンダも「対話派」であるにもかかわらず、非難の矛先はなぜかバッタライに向かったということを、たまたま、外部に漏れた中央委員会の録音テープを聴いた人に聞いたことがある。それまでは、頻繁に「カンティプル」紙や党機関紙の「ジャナデシュ」に記事を書いていたバッタライが、この中央委員会のあと、しばらくのあいだ沈黙を保っていたことから、「党内で処分された」という噂があったことも事実だ。その後、バッタライは人民解放軍の3つある師団のうち、中部師団の政治コミッサーとなったことがわかった。
しかし、党除籍とは。英語も自由に操る党内の“トップ・イデオローグ”がいなくなったら、党にとって大きな痛手のはずである。あるいはマオイストの本拠地に近い地元の記者が何か情報を持っているかもしれないと思い、何ヶ所かに電話をした。1人の記者が興味深い情報をくれた。「一月ほど前に、バッタライは降格になった」というのである。地元のマオイストと接触のある地方記者は、私たちが知らないいろいろな情報をもっている。しかし、「党除籍」になったことに関しては、誰も知らなかった。いずれにしても、誤った記事であれば、これまでの彼らのやり方からすると、すぐに「否定声明」を出してくる。
もう一つ、今日の「カンティプル」紙に興味深い記事が出ていた。筆頭閣僚のDr.トゥルシ・ギリは5つの省の大臣職を兼任しているが、就任後一月半の間に、3つの省には一度行ったきり、その後顔を出しておらず、他の2つの省には一度も出ていないというのである。どの省も、大臣の部屋は鍵がかかったままだという。法務大臣でもあるギリ副首相は、これまで司法の長である最高裁長官にさえ会っていないという。ネパールでは重要な省の一つ水源省には顔を出していないそうである。各省の次官に決定権を与えているというが、これは、どう見ても異常な事態である。ギリ副首相は他の公的な行事にもほとんど顔を出さない。一体、毎日、何をしているのだろう。不思議だ。
夕方、マオイストのスポークスマン、クリシュナ・バハドゥル・マハラの名前で今日の各紙の記事を「事実ではない」と否定する声明が送られてきた。「党内分裂を図った陰謀である」と主張している。RSSは軍からの情報として、「ダン、サリヤン、バグルン郡などで、反プラチャンダや対話を求めるwall paintingが書かれている」と伝えていたが、マオイストはこれも否定した。彼らが明白に否定していることから、やはり軍がプロパガンダとして流したニュースなのだろう。
3月16日(水曜日)
毎週水曜日の朝の楽しみの一つが週刊紙「ジャナアスタ」を読むことである。この新聞には、とにかくオリジナルな記事が多くて面白い。週刊紙のなかで最大発行部数を誇るのも理解できる。どこまで真実なのかは不明だが、特に、王室・軍、そしてマオイスト関連の記事は他の新聞に比べても群を抜いて面白い。今日のトップ記事は、例の“省に出てこない大臣”Dr.トゥルシ・ギリと最大政党のネパール共産党統一マルキスト・レーニニストのK.P.シャルマ・オリ氏が、先週初め、シタ・ラム・プラサイン氏の家で会ったというものだ。2時間におよぶ会見のあいだ、筆頭大臣のDr.ギリはK.P.オリに対して、入閣するよう説得に努めたという。しかし、K.P.オリは明確にこれを断ったと記事にはある。K.P.オリは2月1日の政変後、自宅監禁下に置かれたが、14日に釈放された。その直後、BBCネパール語放送に「国王と対話をする用意がある」という発言をした。そのためか、翌日、「オリが国王と会った」という噂が流れた。しかし、私が同党関係者に聞いたかぎりでは、これは真実ではなかった。UML内部を分裂させるために故意に流した噂の可能性もある。オリはもともと、マダフ・クマール・ネパール総書記と並ぶ派閥を率い、党内ナンバー2の地位にいたが、国王を支持するような発言を繰り返したために、彼を支持する若手リーダーたちが彼と距離を置き始めた。党中央委員会がジャラ・ナス・カナル氏を総書記代理として任命したのを、オリ氏は面白く思っていないと言われている。党内での彼の基盤が弱まったのを見て、王室は彼を一本釣りしようと試みたのだろう。
ネパール会議派(民主)の青年リーダーと会う。20代後半から30代のこの世代には、どの政党にも自党のリーダーの弱点をよく理解している活動家が何人かいる。この青年も、デウバ前首相の弱点や他の党幹部の弱さをちゃんと認識しており、話していて気持ちがいい。2002年5月の国会解散が原因となって、ネパール会議派から分裂したこの政党には、もともとデウバ党首を心から支持している人は少なく、「(ネパール会議派の)ギリザ・プラサド・コイララ党首と合わないため、デウバの政党に来た」という人が少なくない。彼と話していてもそうした感触が伝わってくる。学生・青年組織のレベルではすでに、党の再合併の話しも出ているらしい。しかし、両党のトップ幹部のエゴでなかなか実現しそうにないという。「われわれはどうすべきか?」とアドバイスを求められ、「まず、党内で汚職幹部の粛清をすべき。さもなければ、一般国民はいつになっても政党を信用しないし、運動にも加わらない」と話すと、「その通りだと思うが、トップレベルのリーダーがそれを実現するとは思えない」と言う。ネパール会議派もネパール会議派(民主)も、UMLと違って、党首が幹事長などの党幹部職を任命する党規をもつ。コイララ党首もデウバ党首も自分のイエス・マンばかりを任命し、したがって党改革がなかなかできないことになる。これでは、国王が大臣を任命するのと同じである。自党内が民主的でないのに、運動で民主主義を求めるスローガンを上げたところで説得力がない。この青年リーダーは、こうしたことをすべてわかった上で、「党リーダーに働きかけていく」と言う。頼もしいかぎりだ。心から頑張ってほしいと思う。
夜、インターネットを見ていると、あるウェブサイトで日刊紙「カンティプル」の編集長ナラヤン・ワグレが、明朝9時にカトマンズ郡警察署への出頭を命じられた召喚状を受け取ったとあった。昨日の同紙の記事に関して説明を求められているという。早速、同紙の編集部に電話をすると、これに関しての会議が始まるところだった。これまでメディア関係者は郡行政局(CDOオフィス)に呼ばれるのが普通で、警察に召喚されるのは初めてだという。同紙は昨日の一面で、14日の合同デモで逮捕されたネパール会議派の長老バル・バハドゥル・ライが党旗を掲げて、空中に白いパンフレットが舞うなかを一人でデモをする写真を大きく掲載していた。「全国で750人が逮捕された」という見出しの記事をトップで載せていた。あるいは、この記事のせいなのか。しかし、同じ会社から発行される英字紙「The Kathmandu Post」にも、同様の写真と記事が掲載された。なぜ、「カンティプル」の編集長だけ呼ばれるのか。あるいは、同じ一面に掲載されたDr.トゥルシ・ギリの記事が理由なのか。いずれにしても、このところ日刊紙も週刊紙もかなり大胆に民主化運動の記事を掲載しだしている。この辺で、活を入れておこうという試みなのだろうか。
3月17日(木曜日)
午前9時、「カンティプル」紙のナラヤン・ワグレ編集長が召喚されているカトマンズ郡警察署(ハヌマンドカ)へ行く。先日、やはりラリトプル警察署に連行された「HIMAL」編集長のカナク・マニ・ディチト氏や他の記者が外で待っている。自身の経験について話を聞くと、ディチト氏は連行後、マオイストを拘置される部屋に入れられた。すでに部屋まで用意されていたことから、長期間拘置されるのだろうと思ったという。ところが、午後11時過ぎ、突然「帰ってください」と言われたという。ディチト氏は「もう遅いから一泊して明日帰りたい」と言ったところ、警察側は「お願いだから帰ってほしい」と嘆願したというのだ。連行しておいて、「帰ってください」と嘆願するとは、外からの圧力があったのだろうと予測できる。ディチト氏は「この日、ラメシュ・ナス・パンデ外相がインドを訪問していたことから、多分、インド政府が圧力をかけた可能性がある」と話す。
“政変”後、カトマンズ郡行政局には「デサンタル」、「ビマルサ」、「ハンカ」、「プラカシュ」、「サング」、「ブダワル」と、6つの週刊紙編集長が召喚されているが、新聞の編集長が警察に召喚されたのは初めてだ。ワグレ編集長と「カンティプル」紙の記者数人、それにカンティプル・テレビのスタッフが9時10分すぎに2台の車で到着した。同紙の顧問弁護士も同行している。外にいたメディアも全員が警察署内に入り、聴取が終わるのを待つ。ワグレ編集長らは同警察署長の部屋に入ったあと、1時間ほどで出てきた。警察署前で即席の記者会見が始まる。警察が同紙を召喚した理由は、15日の同紙1面に掲載された5政党のデモ(14日の)の記事にあることをワグレ編集長が明らかにした。大きな見出しで「全国でデモ隊の750人が逮捕された」という記事である。警察は「750人」という数字が事実ではなく、「国王の宣言の精神に反する」と編集長らに告げたという。これに対して、「カンティプル」紙側は、「警察にはメディアが報道したニュースに関して聴取する権利はない」と、主張したという。14日のデモに関しては他紙も一面で報道したが、召喚されたのは「カンティプル」紙だけだった。これについて問うと、「発行部数と影響力を考えてのことだろう」とワグレ氏は答えた。
インドのムケルジ大使がまた昨日、ニューデリーに呼び戻された。“政変”後、2度目の本国召還である。アメリカのライス国務長官がデリーを訪問した直後の大使召還には、深い意味がありそうだ。興味深いことに、昨日、ネパール外務省は中国が14日に採択した台湾の独立を阻む反国家分裂法を支持する声明を出した。ネパール政府はもともとチベット・台湾に関しては、中国政府を支持する政策を明らかにしてきたが、政変後、インド政府との関係がぎくしゃくしている時期だけに、こうしたあからさまな中国寄りの態度には、特別な意味があるのではと勘ぐってしまう。
空港の近くにある情報局で、筆頭閣僚Dr.トゥルシ・ギリとキルティ・ニディ・ビスタ、タンカ・ダカル情報通信相の記者会見がある。国王率いる内閣が発足してから、筆頭閣僚による初めての記者会見である。昨日、情報局からの知らせでは、午後3時半と聞いていたのだが、行ってみると「4時から」だという。遅れてくる人を見越してのことなのだろうが、午後3時にアサンから出る予定の5政党の学生・青年組織のデモを5分しか見ずに慌てて駆けつけたため、少々だまされたような気分になった。
結局、40分近く待たされて3人は部屋に入ってきた。まず、ダカル情報通信相が、1990年民主化以降、政党リーダーがいかにして誤った政治をしてきたか、そのためにいかにして、マオイストが拡大する素地ができたかについて長々と演説する。話しの内容は事実なのだが、いかにも自分が「悪を征する者」のような立場で話す仕方が腑に落ちない。民主化以降、政治の舞台から遠ざかっており、突然、国王に大臣に任命されたこの人物のどこに、政党をしかりつける権利があるというのか。ダカル情報通信相は「国王は国民の望みにしたがって、歴史的な判断をなさったのだ」と繰り返し述べる。横の記者を見ると、苦笑いを返してきた。「国民の望み」というが、どれだけの国民の望みを反映しているのだろう。
次に、ギリ筆頭閣僚が壇上に立って話しを始めた。まず、「国王の宣言は憲法上のアドバイスに従って行われたもの。このアドバイスが正しかったか誤っていたかは、時が経てば明らかになる」と話す。そして、非常事態宣言に関しては、現憲法の条項を読んで聞かせて、「(1990年民主化運動の)民主化勢力が制定した憲法にある条項を国王が利用されたにすぎない」と、あくまでも国王のとられた措置が合法だったことを正当化しようとした。1990年の民主化後、ネパールを離れてスリランカやインドのバンガロールで暮らしてきたギリ筆頭閣僚は、話しの途中何度も「外にいた自分よりも、あなたたちのほうがよく知っているだろう」という表現を使った。現憲法の制定年度さえも知らず、会場から苦笑が沸き起こった。ギリ氏は法務大臣でもあるが、就任後、一度も省に出向いていないと聞く。憲法の制定年度も答えられない法務大臣が世界のどこにいるのだろう。
ギリ筆頭閣僚は、マオイストと政党リーダーに対して、嫌悪と見下した態度をあからさまにした発言を繰り返した。マオイストに関しては「どんな名前を使っても、彼らはテロリストだ」と決め付け、「自分はマオイストとの対話派ではない」と現政府がマオイストと対話をする可能性を否定する発言をした。そして、「われわれは彼らを一掃するのに十分な防衛力を備えている」と、海外からの軍事援助が削減されても自力でマオイストを軍事制圧する自信を見せた。
一方、「完全な民主主義」を求めて運動をしている5政党を、「外国のドナー国からリモートコントロールで操られている」という表現を使って非難。国王の政変に抗議して、軍事援助を停止したインド・イギリスなどのドナー国に関しては、「(政変に)反応するのは自然なこと。しかし、彼らの言うことに従う必要はない」と、外国からの圧力には屈しない態度を明らかにした。さらに政党に対しては、「リモートコントロール・ワラ(主要の政党リーダー)は入閣する用意がある。誰が猫の首に鈴をつけるかだ」とし、「政策をもってくれば、国王は彼らを(王宮に)呼ぶことになる。王室派と民主派は最低4つの合意(反マオイスト、反汚職、官僚改革、透明な財政)に基づいて協力しあうべき。われわれが率いる政府に入閣してほしい」と政党側に正式に呼びかけた。
ギリ氏の夫人はエホバの証人の信者としても知られるが、政治家としては少々限度を超えているかと思うほど、マオイストや政党リーダーに関して毒を含んだ表現を使った。たとえば、「(政党側が)マオイストの活動を受け入れれば、最初に頭にマオイストの弾を受けるのは、NCのコイララ党首とUMLのネパール総書記だ」とまで話した。内容はともかく、非常に興味深い記者会見だった。会見で、ビスタ氏は一言も発言しなかった。