3月18日(金曜日)
「2月1日政変」から、ずっと会って話しを聞いてみたいと思っていた人がいた。人気コラムニストで作家でもあるカゲンドラ・サングラウラ氏である。日刊紙「カンティプル」にサングラウラ氏が“クンサン・カカ(クンサン伯父さん)”の名前を使って書くコラム「ベラ・コ・ボリ(時の話し)」は、最も好きなコラムだ。一般のネパール人が心に思うことを、回り道をしながら、しかし、非常に的確に表現する語り口は誰にも真似のできることではない。彼の筆にかかっては、マオイストも政党リーダーも、そして国王さえも反論ができない。それほど、彼は真実を語るのがうまい。最も鋭い「国王批判者」でもあったサングラウラ氏が、政変後どのような暮らしをしているか興味があった。氏が「カンティプル」にコラムを執筆するペースは、政変後に報道規制が布かれてから明らかにスローダウンしている。氏は表現・報道の自由が奪われた今の状況をどう思っているのか。そして、ネパールの将来をどう捉えているのか。小雨が降る18日の早朝、サングラウラ氏の自宅で話しを聞いた。
実は、政変直後に「サングラウラ氏が逮捕された」という噂が広まった。これはあとで事実でないことがわかったのだが、まず、政変から今までに氏自身の身辺で起こった事を聞いた。
「2月1日の国王の宣言をテレビで聞いたあと、この宣言をテーマにしたコラムを書いて、午後4時に『カンティプル』の編集部にE−メールで原稿を送ろうとしたところ、つながらなかったため、初めて電話が切られていることを知った。この日は、宣言が始まる30分前に、すぐ近くに住む共産系リーダーのC.P.マイナリさんの家に治安部隊が来て、彼を自宅監禁下に置いた。その後も、マシンガンを持った兵士が彼の家を包囲して滞在していたのだけれど、私は5日まで家にいた。ところが、2月6日に友人から“王制に批判的なことを書いてきたのだから、家にいないほうがいい”と忠告されて、この日にヨーロッパのある国の外交官の家に移り、その後、1週間保護してもらった」
2月8日に電話が再開したあと5日たって、官憲は彼の自宅の電話を10日間切った。そのため、いったん自宅に戻ったサングラウラ氏は、再び家を離れて友人宅に1週間匿ってもらった。
サングラウラ氏は、政変直後に「カンティプル」紙の編集長から「政治を話題にしたことを書かないでほしい」と頼まれた。彼は、軍からの検閲官が去ったあとも自己規制を続ける最有力紙「カンティプル」の方針を批判する。
「軍からの圧力があっても、報道機関のリーダーとして『カンティプル』が果たせる役割はあった。編集長にも言ったのだが、報道の自由が奪われたことに対する抗議のために、社説を空白にして発行するか、あるいはそれもできないのであれば、編集長は辞任をすべきだった」
週刊紙のなかには、政変後の最初の号の社説や意見欄を空白にして発行した新聞が6紙あり、全紙の編集長がカトマンズ郡行政局に召喚されて聴取を受けた。しかし、民主化後最初の民間日刊紙としてネパールのメディア界をリードしてきた「カンティプル」は、発行の継続を最大のプライオリティとして、規制に従った。
「“軍はカンティプルを閉鎖しようと試みた。もしそうなったら、大勢の雇用者が路頭に迷うことになる。だから継続を最優先としたのだ”と同紙は言うが、『ゴルカパトラ』(政府の新聞)と同じになったら、“政府のopposition(野党)”としての役割をもつ新聞の存在意味がなくなる」
サングラウラ氏は、最大発行部数の「カンティプル」が大人しく規制に従ったのに対して、もっと部数の少ない日刊紙「ラジダニ」や政党とつながりのある週刊紙がリスクを負って報道していると話す。
もっとも、「カンティプル」紙も徐々に規制の枠を破って報道を始めており、15日には国王の宣言に抗議して運動を開始した5政党のデモを大きく一面で報道して、ナラヤン・ワグレ編集長が17日、カトマンズ郡警察署に召喚されて聴取を受けた。サングラウラ氏自身も、3月16日付けの同紙に「タンコット(カトマンズ盆地への陸路の出入り口)やトリブバン空港で、特定の人物が外に出るのを阻止して、思想の力と拡大を阻止することは不可能だ」と書いて、表現・報道の自由を奪った政府をかなりきつく批判したコラムを書いた。空気で充満したサッカーボールが少しの力でもよく跳ね上がることを例えに使って、「さまざまな形で抑圧された思想が人の頭に充満したら、“ムルダバード”“ジンダバード”(デモでよく使われるスローガン)の声が爆発する」と書いて、表現の自由が抑圧されるほど、それへの反発が強くなると、現政府のやり方を批判した。そして、「爆発物を含んだサッカーボールの生産が加速したとき、街頭は人間サッカーボールであふれ、“4月6日(1990年の民主化運動でカトマンズ市内を市民のデモ隊が埋めた歴史的な日)”が来ることになる」と続け、この日が来たら「無政党主義者(絶対王政派のこと)のDr.トゥルシ・ギリやそのアドバイザー、サラド・チャンドラ・シャハ氏は、間違いなく再び海外に逃亡することになる」と言い切った。筆頭閣僚のDr.ギリは1990年民主化後、スリランカやインドで、シャハ氏はシンガポールで半亡命生活を送ってきた。