通信の切断、治安部隊の出動、反国王派の監禁・拘束など、混迷続くネパールからの現地リポート。
9月16日(金曜日)
8月半ばごろから、ネパール共産党統一マルキスト・レーニニストの中央委員会が「民主的共和制」を党方針とすることを決定、ネパール会議派が党綱領から「立憲君主制」の言葉を除去するなど、7政党による民主化運動に大きな動きがあった。これを受ける形で、9月4日以降は、ほぼ毎日、「デモ集会禁止域突破デモ」がカトマンズの中心部で行われている。こうした運動の盛り上がりのきっかけを作った最大の要因は、「民主主義と平和のための運動」という市民グループが、カトマンズとパタンで「ロクタントラ(民主主義)」をスローガンにしたデモや集会を開催し、大成功を収めたことにある。政党リーダーに対する国民の信頼がすっかり失われ、政党が呼びかけた運動が一般市民の心をつかむことができないでいるときに、市民グループは独自の平和集会を開いて、大勢の市民の関心を引き寄せた。この市民グループは、医師や弁護士、大学教師、エンジニアなどの職業人を中心にしたもので、1990年民主化運動のときにも活躍した人たちが核になっている。このグループの主催者であるDr.ディベンドラ・ラジ・パンデは90年民主化運動のときにも、率先して知識人のまとめ役を果たし、やはり運動が盛り上げるきっかけを作るのに重要な役目を果たした。今日、朝8時、Dr.ディベンドラ・ラジ・パンデにカトマンズ市内にある自宅でインタビューをした。
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Dr.ディベンドラ・ラジ・パンデ |
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(パンデ);暫定内閣への入閣に関しては、最初、NCのコイララ党首に頼まれたときには、「入閣するつもりはない」とはっきりと断りました。しかし、民主化運動の最高指導者である故ガネシュ・マン・シンに頼まれて仕方がなく引き受けたのです。入閣したあと、政党リーダーの仕事を近くで見て、とてもがっかりした。その後、自分で新政党を作ったりもしたのですが、それも解散して、公的な生活から遠ざかり、執筆活動に専念したのです。
90年の民主化運動と今回の民主化運動の違いについては、こう話した。
(パンデ);第一に、90年の民主化運動は目的がはっきりとしていた。つまり、30年におよぶパンチャヤト制度を終わらせて、複数政党制度を復活させるための運動でした。しかし、現在進行中の運動はゴールがはっきりしていません。各政党は一応、新憲法を制定するための制憲議会選挙までは要求が一致したが、その先どうするのかがはっきりしていません。それと、もう一つ大きな違いは、90年当時は、政党に対しても複数政党制度に対しても国民の期待があった。ところが、今、国民はこの15年の政党政治に失望して、政党に対する信頼をすっかり失っています。そのため、運動を進めるのは今のほうが難しい。しかし、一方で、90年当時、私たちは市民の代表というよりも、「知識人・職業人の代表」という社会のなかの小さなグループとして声を上げていました。ところが、15年のあいだに民主主義が浸透し、「市民社会」と呼べるような国民の層が生まれています。この非常に大きなグループが今、“ロクタントラ”という一つの方向に向かっているわけです。
昨年9月から、子供ができた1人娘の一家とほとんどの時間をアメリカで過ごしてきたDr.パンデは、2月1日の政変当時もアメリカにいた。しかし、国王によるクーデターのニュースを聞いて、すぐに飛んで帰ってきた。国家非常事態が発令されているあいだ、知識人らを集めて何度も会合を開いたりしてきたが、グループが「街頭運動のための機が熟した」と判断したのは、人権活動家のクリシュナ・パハリが釈放され、やはり90年民主化運動で活躍し、2月1日政変後地下に潜行していたマトゥラ・プラサド・シュレスタ元教授が地下から“表”に現われたあとだったという。「民主主義と平和のための運動」は、最初のプログラムとして、7月25日に、当局が「デモ集会禁止域」に指定したラトナ公園に集合し、「禁止域ライン突破デモ」を決行した。医師や大学の先生たちが、「ロクタントラ・ジンダバード(民主主義に勝利を)!」というスローガンをあげながら、地面に横たわり、警官に逮捕されていくシーンは、政党デモとは別の強烈な印象を一般市民に与えた。このプログラムを実施するきっかけとなった出来事について、Dr.パンデは、こう話した。
(パンデ);ある人権活動家に誘われて、7月19日にロイヤル・アカデミーで開かれることになっていた7政党の「模擬国会」を見に行きました。当局側がアカデミーの中に入れるのを阻止したために7政党は「模擬国会」を開くことができずに、アカデミーの門の前で解散したのを目にしました。政党リーダーたちが、抗議のために、その場で座り込みをすることもなく、あっさりとあきらめて帰っていくのを見て非常にがっかりしました。この同じ日の午後3時半から、たまたま市民グループの会合があり、この場で「臆病な政党を刺激するために、われわれも街頭に出て運動をするときがきた」と決定したのです。7政党が26日に場所を変えて「模擬国会」をやり直すことになっていたため、政党側に“活”を入れる目的で、その前日の25日にラトナ公園でデモをすることを決めました。その後の市民集会もそうですが、私たちの運動の目的の一つは、運動のゴールがはっきりとしていない政党側を刺激することです。最初のデモが決まってから、私とマトゥラ・プラサド・シュレスタ、そして、当時インドに行っていたクリシュナ・パハリの3人の名前で声明を出して、プログラムの日時を宣言したのです。
Dr.パンデは、運動がここまで来ても政党リーダーが信用できないと話す。
(パンデ);政党側は2002年に解散した国会の復活を民主化運動の要求としているが、もし、国王がこれを実現して、政党リーダーたちが再び議員になり、彼らが大臣になったとき、政党リーダーは国王と簡単に妥協するのではないかという強い疑いがある。そうなった場合、われわれ市民グループの運動は大きな障害に直面することになる。なぜなら、われわれが要求している“ロクタントラ(民主主義)”は、すでに死んだ状態にある1990年憲法に戻ることではなく、さらに進んだ新憲法を作ることになるからです。市民グループのなかには、セレモニアル(儀式だけの)な王制なら認めるという意見の人もいますが、この国王がそうした王制に甘んじる可能性は非常に低い。したがって、個人的には私は国王のいない民主主義を求めます。
最大二政党のネパール会議派とネパール共産党統一マルキスト・レーニニストが党方針を変えた事に関しても、Dr.パンデは信用がならないという。
(パンデ);二政党とも、方向は変わったが、指導者が変わらず、乗り物は古いまま。したがって、本当に彼らが行く道が変わるかどうか、まだ信用することはできません。議員や大臣を経験したリーダーは、カトマンズでの贅沢な暮らしにすっかり慣れてしまい、どうしても権力、つまり王室に吸い寄せられることになる。表面的には変化したように見えても、指導者層の考えが根本的に変わったとは思えない。ラディカルな変化を求めないと言う点では、外国勢力も同じです。インドをはじめ、英米諸国などは、ネパールが大きく変革することを望んでいません。もちろん、国王が儀式だけの国王にとどまるというのならば、受け入れてもいい。しかし、王制に関して、われわれは幻想を抱くべきではありません。
Dr.パンデら市民グループは現在、各地で“ロクタントラ”のための市民集会を開催している。そのためにカトマンズからクリシュナ・パハリやDr.パンデらが数人ずつのグループで地方行脚をしている。彼自身、一昨日、グルミで集会を開いて戻ったばかりだ。地方でのプログラムに関しては、実は地元の人たちがイニシアチブをとって、彼らを招待しているのだという。
(パンデ);私たちも驚いているのですが、地元の人たちが自発的に集会を組織して、私たちを呼んでくれるのです。われわれの旅費さえも、地元の人たちが寄付を集めて出してくれる。グルミでは、ネパール商工会議所のメンバーら、つまり地元のビジネスマンも率先して参加していました。すでに12,3の郡で集会を開き、さらに、7,8の郡から招待されています。
しかし、郡によっては、某政党が市民の集会を邪魔するようなことをしたところもあるという。政党の集会よりも市民の集会に大勢の人が集まるのを阻止するためだったのだろうと、Dr.パンデは話す。そんな狭量な政党では、とても運動を成功させることなどできない。政党側もいい加減目覚めるべきである。
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